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しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 58~66

「おい、凛太郎。今日の勉強会とやらは、そんなに骨が折れるもんだったのか?」
 伸一郎はビール片手に夕食のカレーを食べながら、凛太郎に訊ねた。
 カレーは昨夜、凛太郎が作っていったものである。凛太郎は父・伸一郎に秀信の家に行くことを、友達と一緒に遠くの図書館で勉強会をすると偽っておいたのだった。
 今まで伸一郎は、凛太郎に母・明子の話をほとんどしなかった。ということは、明子、および明子の一族と、伸一郎にはなにかよからぬ因縁でもあるのではないか。
 凛太郎はそう気を回して嘘をついたのである。
 今日の信行の態度からして、実際、凛太郎の読みは正しかったのだが。
 伸一郎は喉を鳴らして、ビールを飲んでから一息ついた。
 いつもは伸一郎の向かい側に座っているはずの明の姿は、今夜はなかった。
 明は今日、帰宅後すぐに自室に引きこもったのだった。
「いつも夕飯って言やあ、真っ先にやってくる明くんなのによ。どっか悪いのか? それとも失恋の痛手とか」
 豪快に伸一郎は笑った。
「冗談よしてよ」
 凛太郎は席を立った。
「ごちそうさま」
「お前ほとんど食ってねえじゃねえか。それ以上、かよわい体になってどうする」
 凛太郎は伸一郎には無言で、後かたづけを始めた。今は伸一郎のからかいに乗っている暇はない。明がどうにも心配だった。
 ややあって、伸一郎がめずらしく真面目な表情で申し出た。
「俺が皿洗っとくからよ。明くんの様子早く見てきてやれよ」
 凛太郎は伸一郎に礼を言ってから、明の部屋に向かった。
 雑駁な伸一郎が、皿の二、三枚は軽く割るのではないかと心配だったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 凛太郎は明の部屋をノックした。
 返答はなかった。
「明、入るよ」
 凛太郎はドアのノブを回した。
部屋の中は、真っ暗だった。
「明?」
 凛太郎は一声かけた。返答がないので、胸騒ぎがして蛍光灯をつける。
 ベッドにはふくらみがあった。凛太郎が近寄ってみると、低い呼吸音がしていた。
「明、どこか具合でも……」
 凛太郎はそう一声かけた。ベッドの傍らに腰を下ろす。
 途端に明はふとんから出てきて、凛太郎に抱きついた。凛太郎が驚く間もなく、明は凛太郎に深くくちづけた。凛太郎の舌を強く吸い、唾液を何度も飲み下す。
「……助かった」
 ようやく凛太郎の唇を解放して、明はつぶやいた。
 肩で息をしながらうなだれている明を見て、凛太郎は狼狽した。ここまで疲れた様子の明を見たのは、ほとんど初めてに近かった。
「明、どうしたの?」
「……あの屋敷のせいだ」
 前髪を手でかきあげながら、明は舌打ちした。
「あの先公の屋敷に、気を吸い取られちまったんだよ!」
 忌々しげにつぶやく明に、凛太郎は気後れしながら尋ねた。
「もしかして……信行さんにお札を貼られたから?」
「ああ、それもある。情けねえけどよ」
 明はぞんざいにつぶやいた。
「俺たち一族は、何でだか知ンねえが、昔からあの紙きれには弱ェんだ。けど、それだけじゃねえ」
 明は深く考え込むように息をついた。
「あの屋敷自体に、俺の気を吸い込むイヤ~なもんが満ちてる。ほら、あの爺さんが”伏魔殿へようこそ”って言っただろ。まさにそんな感じだよ」
 凛太郎は遠慮がちにツッコミを入れた。
「あの……明も、鬼なんだけど」
「鬼よりもっと質の悪いもんだよ!」
 明はムッとして怒鳴った。凛太郎はそんな明は子供っぽいな、と少しあきれた。
「俺たちってのはな、人間どもにああだのこうだのさんざん言われてるが、少なくともそんなに悪いもんじゃねえ」
「そう? 明を見てると、十分悪く見えるんだけど」
「お前、俺によがり殺されてェのか、凛太郎?」
 明は腕組みしながら凛太郎をねめつけた。口元は笑っているが、目が真剣そのものだった。
 凛太郎はたじたじとなりながら、話をそらすことにした。
「そ、それで? 先生の屋敷はどうなの?」
「そうだなあ」
 明はうーん、と腕組みしながら考え込んだ。どうやら腹上死はまぬがれそうだと凛太郎は胸をなで下ろす。
「あの先公にどうも似てるんだ。ヒヤっとしてて、イヤ~な気なんだよ。生命そのものを吸い取ってるような……」
「そういえば、明、あの井戸の前で真っ青になってたね」
「そう、あの井戸だよ、井戸!」
 明はパチンと手を叩いて、凛太郎の肩をバンバン叩いた。思わず咳き込む凛太郎を尻目に、明は興奮気味に言葉を続ける。
「あの井戸よォ、すっごくイヤな”気”を発してたんだ。なんだかよくわかんねえけど。あそこに行ったあたりから、俺はものすごくしんどくなってきたんだよ」
 明は一人、ウンウンとうなずいた。
 やがてふと気づいたように凛太郎に訊ねた。
「凛太郎ちゃんは何ともなかったのか?」
「僕はべつに……」
 凛太郎は考え込みながら答えた。
「やっぱり俺って、繊細なのかなあ」
 明はため息をついた。
(明のどこが繊細なんだよ)
 凛太郎は胸の内で苦笑した。
 ややあって、明は吹っ切ったように顔を上げた。
「ああ、もうっ! くよくよ考えてみても仕方ねえ! とにかく俺は、あの井戸には近づかねえことにする! でもって、あの疲れる屋敷から帰った時には」
 そこで明はニィ、と笑った。黒い短髪がしゅるしゅると伸び、肩まで届く緑色になる。
 凛太郎が「あ」と声を上げた時には、明は凛太郎の顎を持ち上げていた。
 世にも美しい鬼は、凛太郎にささやいていた。
「お前に、こうすることにする」
 緑色の髪をした鬼は、凛太郎に接吻した。凛太郎の口内を犯しながら、片手で指先から光線を放った。光線は緑色の障壁を作った。
「……ようやく結界が張れるくらいには回復したぜ。お前のおかげでな」
 凛太郎から唇を離して、明は言った。慣れた仕草で、凛太郎の口元を指先でぬぐう。
 明はそのまま、凛太郎の体をゆっくりとベッドに押し倒した。
「あ、明、僕、今日、先生のお屋敷に行って疲れてるんだけど……」
 明にトレーナーをまくりあげられながら、凛太郎は抗議の声を上げた。が、途中で明に耳朶に舌を入れられ、どうしてもあえぎが漏れてしまう。
「心配いらねえ。よがり殺したりはしねぇから。天国には連れてってやるけどよ」
 凛太郎の体のあちこちにくちづけながら、明はささやいた。凛太郎はすでに、何も考えられない状態になりつつあった。

 漆黒の闇につつまれたその一室で、鏡だけが青白く光り輝いていた。
 二人の男が、その鏡を凝視していた。
 古ぼけてはいるが、優美な装飾がほどこされたその鏡には、少年が鬼と交わっている姿が映し出されていた。凛太郎と明である。
「……これは晴信様にはお見せできない光景ですね」
 長い前髪をかきあげて、祥が淫らに笑った。興奮のためか、声が粘っこくなっている。
 鏡の脇には凛太郎の髪がくくりつけられた幣帛が置かれていた。秀信に命じられて、晴信はこれによって神懸かりした。そして、この鏡によっていつでも凛太郎の行動を監視できるようにしたのだった。
 今夜、晴信は凛太郎と過ごせたことではしゃぎすぎて、ぐっすりと眠っている。もともと体が弱い性質なのである。
「交わりのなんたるかは晴信はすでに知っている。私が知識として教えておいた」
 鬼に貫かれてあえぐ凛太郎の姿に、顔色ひとつ変えずに秀信は言った。
「それはあくまでも知識として、でしょう?」
 祥は肩をすくめて、皮肉っぽく笑った。
「一生、外界と遮断されて、清童として過ごさねばならない晴信様は、生涯、こんな快楽を味わうことはありますまい。こんな、ね」
 祥は唇をぺろりと舐めて、鏡の中の凛太郎に見入った。凛太郎の白い肌は、すでに朱色に染まっていた。
「……何が言いたい?」
 秀信は冷えた目で、祥を横目で見た。
「おやおや。今日のあなたはずいぶんとご機嫌が悪いですね。その目。感情がむき出しだ。昼間、信行さまを顔色ひとつ変えずに脅迫した御仁と同一人物とは思えない。とかげ。あの言葉は、あなたが先日、信行さまに命じられて、極秘裏にとかげの式を打ったことをほのめかしていたのでしょう? 信行さまはよほど大物を呪殺しようとしていたと見える。あなたの一言で、あれだけ狼狽したのですから。それに荷担するあなたもあなたですがね」
 秀信は醒めた目で、一言言った。
「好きに憶測するがいいさ。俺は何も知らん」
「おやおや、今度ははぐらかしですか」
 祥は乾いた笑い声を立てた。垂れた双眸が、秀信のえぐるべき傷口はどこかと探している。
「どんなに冷静なフリをしても、あなたの今の目のぎらつきは隠せない。生臭い、嫉妬で汚れた目だ。ふだん、あなたがもっとも軽蔑している世俗の感情だ」
 秀信は祥の言葉が聞こえないかのごとく、鏡の中の光景に視線を落としていた。
「ほら、それがいい証拠だ。なぜさっきから凛太郎くんと鬼の交わりを見るのをやめようとしないのです? 淫らなことは、飽きるほど経験してきたあなたなのに」
「私には、凛太郎の行動を監視する義務がある。鬼との行動は特にな」
 秀信の声は静かだった。祥はあきれたように首を横に振った。
「嘘おっしゃい。それだけではないはずだ。あなたはあの坊やが……」
 言い終わらないうちに、祥は胸をおさえてうずくまっていた。
 秀信は、呪文のようなものを低くつぶやいている。
「ひ、秀信さま……助け……苦し……ッ」
 祥が息も絶え絶えの悲鳴を上げた。
 秀信は立ち上がって、悶絶する祥を睥睨した。
「あとしばらくはそうして苦しんでおけ。おのれの愚かさを思い知るまでな」
 秀信は冷えた笑いを浮かべながら、室内から出て行った。
 あとには、苦しむ祥と、淫らな光景を映し出す鏡だけが残された。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおゑにさりへてのますあせてほりけ」
 斉殿に、晴信の声が響いていた。
 まだ声変わりしていない少年の声は、高く清らかで、女のものより透明感がある。
 凛太郎は、目を閉じて、全神経を晴信の声に集中していた。
 これは古くから伝わる祓詞というもので、これを聞き続けているうちに神経が研ぎ澄まされ、巫子としての修行になるというのである。
 晴信の唱和を聞いているうちに、凛太郎の脳裏はいつしか澄み切っていった。
 頭の中が真っ白になり、いつしか奇妙な陶酔感を得た時。
「今日はこれくらいにしましょうか、凛太郎さま」
 凛太郎の肩をポン、と叩いて晴信が言った。
 その顔には、十二歳の少年とは思えぬ落ち着きと威厳があった。

 ここのところ毎週日曜日、凛太郎は弓削家で修行することになっていた。
 その数時間、晴信とふたりっきりで斉殿にこもる。
 凛太郎は、晴信のことを実に不思議な少年だと思うようになっていた。
 斉殿では、あれだけ毅然としているというのに、そこを一歩出ると晴信は
内気で照れ屋の少年になってしまうのである。
「このお煮付け、おいしい! 晴信くん、そう思わない?」
 凛太郎は、弓削家の昼食の食卓を秀信、祥、明、そして晴信とともに囲んでいた。
 テーブルの上には、見事な精進料理が並んでいた。そこに肉と魚が一切並んでいないことに凛太郎は弓削家の特殊さを思い知る。
 凛太郎に話しかけられた晴信は、箸を握ったまま真っ赤になってこくり、とうなずいた。
「そ、そうですね。とってもおいしいです」
 消え入りそうな声で晴信は言った。
 これだけ話せるようになっただけでもたいした進歩である。
「晴信さま、凛太郎さまに昨日のことをお話されてはいかがですか? お庭に咲いた皐月がとても綺麗だから、凛太郎さまにお見せしたいってはしゃいでおられたではありませんか」
 祥が晴信を励ますようにうなずきかけながら、言葉をかけた。
 秀信は優美な手つきで箸を扱いながら、横目で微笑ましげに晴信を見守っている。
 明はすさまじいスピードで、丁寧に盛りつけられた料理を食い散らかしていた。
「なあ、ステーキとか出ねえの? これじゃ食った気がしねえぜ」
 小鉢料理を次々とたいらげながら、注文をつける明に凛太郎は他人のふりをしたいと思いながら、伏し目がちにしている晴信に声をかけた。
「え、本当? どんな色の花なの、晴信くん?」
 できるだけ興味深そうに晴信に声をかける。 
「え、えっと……」
 晴信は口ごもった。
「薄い桃色……」
 そこで会話は途切れてしまった。祥は「困ったなあ」といった保護者の視線を晴信に送っている。
 凛太郎はもう少し踏み込んでみることにした。
「晴信くんは、ふだん何をしているの? 趣味は何かな? 好きなテレビ番組はないの?
ゲームとか、する?」
 不意に晴信の表情が曇った。
「ない、です……」
 晴信は小さく答えた。
 祥が、そして秀信までもが気遣わしげに晴信を見やっている。
 凛太郎は、自分がなにかまずいことを言ってしまったことを悟った。

 昼食後。
 古ぼけた毬をつきながら、晴信は弓削家の広い庭で遊んでいた。

 ひとつひとよの夢ならば
 ふたつふたりで山こえて
 みっつみなで誰そ彼へ
 よっつ黄泉への旅行かむ

 いつついくさのつわものは
 むっつむなしきこの世をば
 ななつ無しにと思いけむ
 やっつ八雲のほむら立て
 ここのつ九重虹が立ち
 とおに遠きは極楽ぞ

 晴信の歌声が、陽光に照らされた日本庭園に典雅な彩りを添えていた。
 その声を聞きながら、凛太郎は傍らにいる秀信に尋ねた。
 明は長いすに座って、祥に差し出されたまんじゅうを食べている。
「晴信くんの歌っているあの手鞠歌、どこかの民謡ですか?」
「不吉な歌詞だろう?」
 フッと笑いながら秀信は言った。お前もそう思っていたんだろう、と言いたげな少し人の悪い笑みだった。
「そ、そんなことないと思いますけど……」
 凛太郎は秀信の気分を害したのではないかと気遣いながら、とっさにそう答えた。
 けれど、秀信の言葉は凛太郎の内心を言い当てていた。凛太郎は、晴信の歌う歌を心中の歌ではないかと捕らえていたくらいなのだ。
「あの歌は私が晴信に教えた」
 秀信はどこか遠い目をしていた。
「もともとはお前の御母堂――明子様に習った歌でな」
「僕の母さんに?」
 凛太郎は胸をときめかせながら訊ねた。なかなか秀信は、明子の話をしようとしなかった。
 信行の態度から、凛太郎は明子と秀信の間に確執があるのではないかと危ぶんでなかなか明子のことが聞けなかったのだ。
「ああ。今、晴信が遊んでいる毬をいただいた時に教えてくださった手鞠歌だ」
「……」
 凛太郎は黙って目をしばたかせた。
「私に手鞠歌など似合わないと思っているのだろう?」
 秀信に図星を刺され、凛太郎はあわてた。
「べ、べつに……」
「いいのだ。私もそう思っているからな。第一、明子様に私があの歌を教えていただいたのは、私が十二の時だった。すでに男が手鞠などに興味をいだく年ではない」
 そこまで言って、秀信は自嘲するように付け加えた。
「まあ、晴信はべつだがな。あれは、手鞠以外の遊びをほとんど知らない」
「え?」
 凛太郎は、秀信の言葉が意味が分からなかった。
「晴信さまは巫子様だからですよ」
 明に茶をたてていた、祥が秀信の言葉を継いだ。
「巫子の位につくものは、それに任命された時から外界とほぼ遮断される運命にあるのです。俗世は、巫子の霊力を鈍らせますから。ですので、晴信さまはほとんどこのお屋敷からおでになられたことはありません」
 凛太郎は、鬼護神社に来た時、晴信がひどくはしゃいだ様子だったことを思い出した。
 あんな片田舎の神社でも、晴信にとっては新鮮な外界だったのだ。
「じゃあ、テレビやゲームは……」
「もちろん、もってのほかです」
 祥は深くうなずいた。
「うわあ、すっげえ退屈そうな生活」
 お茶をずりずりとすすりながら、明が率直な感想を述べた。
「先生、僕は今、巫子としての修行を受けているんですよね? 僕、家に帰ったらテレビを観たりしているんですが、それでも大丈夫なんですか?」
 心配になって、凛太郎は訊ねた。秀信はかぶりを振った。
「問題ない」
「でも……」
 納得がいかない凛太郎に、祥が説明を始めた。
「凛太郎さまは伝説の巫女・凛姫さまの生まれ変わりです。ですから、持って生まれた霊力が常人とは段違いなのです」
 そこで、祥は悲しげに目を伏せた。
「ですが、いくら巫子としての高い才能をお持ちとはいえ、晴信さまは常人。ですから、現代社会の強い刺激は、霊力のさまたげとなるのです。だから晴信さまはこのお屋敷からお出にならない生活を送られております」
「じゃあ、学校には……」
「行っていない」
 秀信は素っ気なく答えた。
「巫子には、学校の勉強など不要だからな。そんな暇があるなら、巫子としてのつとめを果たせと叔父様は言われた」
 凛太郎の胸は痛んだ。
 ということは、晴信は子供らしいことは何ひとつしていないではないか。
 この屋敷から出たことがほとんどないということは、きっと同世代の友人などいないだろう。
 凛太郎は、晴信の極度な恥ずかしがり屋の理由が飲み込めた気がした。きっと晴信は兄である秀信や祥以外とはほとんど接触したことがないのだ。
「いいなあ、学校行かなくていいなんて」
 明が脳天気につぶやいた。凛太郎がにらんでも、「お茶が苦い」と顔をしかめてばかりでまったく気がついていない。
 秀信がふと気づいた様子で明に問うた。
「貴殿は鬼神であろう? べつに登校などせずとも良いと思うが」
「だってよォ、やっぱり凛太郎ちゃんの行くところにはついていきたいじゃねえか。とあるスケベ教師から守ってやるために」
 まんじゅうをほおばりながら、明が答えた。
「えらくご執心なことだな」 
 メガネの淵を持ち上げながら、晴信が小さく笑った。祥もつられて笑う。
 ふだんなら、真っ赤になって明を叩いているはずの凛太郎だが、今はそれどころではなかった。
 晴信の身の上がどうにもやりきれなかった。あの小さな肩に背負っている重荷を少しでもといてやりたいと思った。何か自分にできることはないか。毬をついている晴信を凛太郎は見つめていた。
 一緒に遊ぼうと言おうか。
 けれどもそうしたら、却って晴信は凛太郎の前で緊張して、萎縮してしまうにちがいない。
 その時だった。
 遠くから、甲高い子供の声が聞こえた。
「晴信く~ん。遊ぼうよ」
 晴信は毬つきの手を止めて、顔をそちらに向けた。緊張気味ながらも、どんぐり眼は子供らしい輝きを放っている。
「先生、晴信くんにも遊び友達がいたんですね」
 微笑ましい気持ちになって、凛太郎は秀信に語りかけた。
 凛太郎の笑みは曇った。秀信が祥とともに、けわしい視線をその子供たちによこしていたからだった。
子供たちは一様に、身なりのよい服装をしていた。今はやりの子供向け高級ブランド服というやつだろうか。
 袴姿の晴信が彼らと並ぶと、いにしえの世界の住人が現代っ子と遊んでいるような奇妙な違和感がある。
「ねえ、晴信くん。遊ぼうったら」
 子供のリーダー格であるらしい少年が、晴信の手を引いた。晴信は嬉しさと困惑の入り交じった笑顔を彼らに向けてから、秀信に尋ねた。
「兄さん。僕、遊びに行ってもいい?」
「およしなさい、晴信さま」
 秀信が答えるより先に、祥が割って入った。
「どうして? 祥」
「そうだよ。晴信くんは僕たちの友達じゃないか。たまに遊ぶくらい、どうしていけないんだい? ね、晴信くん!」
 少年が”友達”という単語を口に出した途端、晴信のふっくらした頬がぽっと桜色に染まった。」
 晴信は嬉しそうに微笑む。
 その時、凛太郎は少年達が底意地の悪い笑みを浮かべたような気がしたが、気のせいだろうと思い直した。
「ですが、晴信さま」
「放っておけ、祥」
 秀信が腕組みしながら言った。
「秀信さま……」
 祥がまだ何か言いたげに口を動かす。
「晴信も、もう子供ではない。何をすれば痛い目に遭うか、自分で判断できる年頃だ。それに晴信はただの子供ではない。わが弓削家の巫子だ。お前もそれは知っているだろう、祥?」
「は、はい……」
 それでも祥の双眸からは、不安げな色は消えなかった。
「じゃあ僕、みんなと一緒に遊んできます!」
 晴信は顔を輝かせて、少年達とともに屋敷に消えていった。
「楽しく遊んでくるんだぞー。お前、ただでさえ普段つまんねえ暮らしさせられてるんだから、ここらでストレス発散してこいよ!」
 明が晴信の小さな背中に向けて、大きく手を振った。
「先生、あの子たちは晴信くんとどういった間柄なんですか?」
「いとこだ」
 秀信は凛太郎に素っ気なく答えた。祥が言葉を受ける。
「一番年長の男の子が、長男・信孝さまのご子息。あとのお二人は次女・頼子さまのご子息であられます」
「ということは、僕の親戚でもあるんだ……」
 凛太郎の胸はなんとなくあたたかくなった。
「そうでございますよ。明子さまは弓削家の長女でおいででしたから」
 祥に言われて、凛太郎の顔に我知らず笑みが漏れた。あの子たちに後で話しかけてみようか。育ちのよさそうな子供だし、もしかしたら凛太郎に兄のようになついてくれるかもしれない。晴信も交えて、みんなで遊べたらどんなに楽しいだろう。
 やがて凛太郎はふと、秀信と祥のいたわるようなまなざしを感じた。
「ど、どうしたんですか、先生? 祥さん?」
 凛太郎は照れ笑いしながら言った。自分が一人でニヤニヤしているのを奇異に思われたのかもしれない。
「いや、お前がずいぶん嬉しそうだと思ってな」
 晴信が苦笑まじりに答えた。
「それは嬉しいですよ。だってまた、自分と血のつながりのある人たちに会えたんですから」
「……血のつながりか」
 秀信はつぶやいた。眼鏡の奥の双眸が、遠くを見ていた。そのまなざしに影があるのはなぜだろう、と凛太郎は思った。
「たしかに血より濃いものはないな。たとえそれが憎しみの源であったとしても」
 秀信のつぶやきは、苦いものをたぶんに含んでいた。
「先生、それって……」
 凛太郎が秀信の言葉の真意を尋ねようとした時、凛太郎の口の中に甘味が広がった。
 いつのまにか凛太郎に歩み寄っていた明が、凛太郎の口にまんじゅうを放りこんだのである。
「ふぁ、ふぁにふるんふぁ、あひぃら」
 な、何するんだ、明、と言いたかったが、口の中のまんじゅうが邪魔になって、不明瞭な発音しかできない。
 明と祥、秀信までもが口いっぱいにまんじゅうをほうばった凛太郎を見て、楽しげに笑った。
 凛太郎は顔を真っ赤にしながら、まんじゅうを飲み下した。
「はい、お茶」
 明が差し出したお茶を凛太郎は一口すすった。すぐに明に抗議したかったが、まんじゅうが喉につかえていたのである。
 凛太郎はほっと一息ついた。まんじゅうの甘みとお茶の渋みが口の中で絶妙なハーモニーを生み出している。
「うまいか?」
「うん……って、明、他人の口に勝手に食べ物放り込むなー!」
 凛太郎は明に食ってかかった。
「まあまあ、いいじゃねえか。まんじゅうもお茶もうまかったことだしよ」
 身を乗り出してくる凛太郎を、両手で制しながら明は言った。
「まんじゅうでも食って、気楽にかまえてろよ。世の中、まだまだお前の知らねえ地獄がそこかしこに口を開けてるんだぜ、凛太郎ちゃんよ」
 明が不意に真面目な表情になって言った。
「その分だけ、私もお前に同感だ」
「さすが鬼神さまでいらっしゃる」
 秀信と祥が、明に深くうなずきかけた。
「え……? 先生、祥さん、それに明……。それってどういう意味なの?」
 凛太郎がきょとんとして尋ねると、明たちはいたわるように凛太郎に微笑みかけた。子供は知らなくていいことだよ、と言っているような笑みだった。
(みんな、僕を子供扱いしてる)
 凛太郎は唇を噛んだ。
 だが、この時まだ凛太郎は知らなかったのである。
 何も知らない子供が、ある意味、世の中でもっとも幸福な存在であることを。

その後、凛太郎と明は秀信たちとの談話を終えて、なにげなく渡り廊下を歩いていた。
 するとある一室から、子供の甲高い声が聞こえてきた。
「晴信くん、答えてよ」
「ねえ、わかるでしょ、これくらい」
「僕たちにもできるんだからさ」
 庭に姿を見せたあの子供たちの声だった。
「なぞなぞ遊びでもしてるのかな?」
 凛太郎はふと楽しい気分になって、明にささやいた。明はどこかけわしい表情で「さあな」とだけ答えた。
 その扉は少し開いていた。凛太郎がその前を通りかかると、中の光景がかいま見えた。
 凛太郎は足を止めた。
 机の前の椅子に座った晴信が、子供たちに囲まれて泣いていた。
「おい、どうしたんだよ、凛太郎?」
 凛太郎の態度をけげんに思ったのか、明も凛太郎とともにドアの中をのぞきこむ。
 リーダー格の子供が、一冊の冊子を手にしてゲラゲラと笑っていた。「漢字ドリル」とその表紙には銘打たれていた。
「こいつ、すっげえバカ。オレたちより年上なのに、こんな漢字も書けねえでやんの!」
「こんなバカが、お屋敷のみんなに”巫子”だのなんだの言われて大事にされてるなんて信じられないよね」
 晴信は、鉛筆を手にしたまま、しくしくと泣いていた。
 子供たちが見ながら笑っている漢字ドリルにはかな釘文字で、いくつかの漢字が書かれていた。幼稚園児のようなその文字は、つたない上にさらに間違っていた。
「お前、どうしてそんなにバカなんだよ! おまけに何だよ、その変な格好。洋服着ろよな」
 子供の一人が晴信を指さして笑った。さらにもう一人の子供が手を叩いて言う。
「ボクのママ、言ってたよ。晴信くんのママって、いやしい生まれのオメカケさんだったんだって。だから晴信くんってこんなに頭が悪いんじゃないの? どこの骨かもしれない女の子供なんだからさ」
 凛太郎は唇を噛んだ。
”やーい、ホステスの子!”
 幼いころ、凛太郎が何度も投げかけられて傷ついた言葉が、生々しく凛太郎の脳裏によみがえる。
 晴信は今、あのころの凛太郎と同じ屈辱を受けているのだ。
 凛太郎は部屋の中に入って、晴信をいじめている子供たちをいさめようと、ドアのノブを回した。
 その手を、明が止める。
「離せよ、明」
 抗議する凛太郎に、明は黙ってかぶりを振った。
 次の瞬間、部屋の窓が大きく開いた。
 と同時に、室内に大きな風が入り込んで、一斉に石つぶてが子供たちめがけて飛んでくる。
「痛い!」
「わ、何だ、これ!」
 子供たちは叫んだ。すぐに耐えきれなくなった様子で、脇目もふらずに部屋から出て行った。
 明は人の悪い笑顔を浮かべながら、蜘蛛の子を散らすように駆け出す彼らに向かってあっかんべえをした。凛太郎はちょっと顔をしかめた。
「もう、明ったら」
「あ、なんか文句ある?」
 凛太郎は微笑みながら、かぶりを振る。
「ううん。今回はほめてあげる」
 凛太郎の言葉に、明はVサインした。
 やがて凛太郎は真顔に戻って、子供たちが開け放したままの部屋のドアから中に入った。
 晴信は、大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、漢字ドリルのページをめくっていた。
「晴信くん」
 凛太郎は遠慮がちに晴信に声をかけた。子供のけんかに自分が口出しするべきではないのかもしれないが、このまま放っておくと晴信の心の傷は広がっていくだけのような気がする。
「り、凛太郎さま」
 晴信は驚いて顔をあげた。あわてて涙をぬぐいながら訊ねる。
「どうしてここに……」
「ちょっと、君たちのやりとりが部屋の外からも聞こえたものだから」
「じゃ、じゃあ僕がみんなに言われていたことも……」
 晴信の涙でささくれだった頬は、朱色に染まった。”バカ”と言われたことを子供心に恥じているのだろう。凛太郎の胸は痛んだ。
「気にすンじゃねえよ。お前のことをバカにするあいつらが、よっぽどバカなんだからな」
 明は晴信に歩み寄って、その栗色の頭をくしゃくしゃと撫でた。晴信は驚いて明を見上げる。晴信に励ますように微笑みかける明の顔は、凛太郎には輝いて見えた。
「ねえ、晴信くん。どうしてあの子たちにあんなことを君はされているのかな? 良かったら訊かせてくれない?」
「……」 
 晴信は口ごもった。もじもじと体をよじりながら、唇を噛んでうつむく。
 しばし考えてから、凛太郎は口を開いた。
「昔、僕さ。ずいぶんいじめられたんだ。ホステスの子供、って。ホステスってなんだか、晴信くんは知ってるかな?」
 晴信はかぶりを振った。
「お酒のお酌をする女の人のことだよ。世の中には、そういう仕事をする人を一段低く見る人もいるんだ。いやしい商売をしている女の人だってね」
 凛太郎は晴信の反応を見守った。晴信は大きな目を見開きながら、凛太郎の言葉に聞き入っている。どうやら、自分の伝えたいことを理解できる状態にあるようだ、と凛太郎は判断した。
 明は凛太郎を励ますように、凛太郎の肩に手を置いた。
「僕の母さんは、ホステスをしていたんだ」
「明子さまが?」
 晴信は驚いた表情をした。
「うん。驚いたかい?」
 晴信はとまどいを隠せないながらも、かぶりを振った。
「いいえ。明子さまがこの家を飛び出したことは知っていますから、生計を立てるためにもしかしてそんなこともあるかもしれないとは思っていました。生きるためにお金を稼ぐって大変なことなんでしょう? 兄さんが僕に教えてくれました。僕の巫子としてのつとめより何倍も厳しいことがあるんだって……」
信は自分に言い聞かせるように言った。
「だから僕、兄さんに約束したんです。巫子としてのつとめが厳しくっても音を上げないって。それに僕の力が、みんなの役に立っているって兄さんも言ってくれたし……」
「あのセンコー、晴信くんをまんまと洗脳しやがったわけだな」
 頭の後ろで手を組みながら、明が皮肉っぽく笑った。
「余計なこと言わないの、明!」
 凛太郎は明の脇腹に思いっきりひじ鉄を食らわした。明が脇腹を押さえながらうずくまる。凛太郎は明を無視して、晴信に優しく語りかけた。
「晴信くんは、とっても先生を信頼してるんだね」
 晴信ははにかみながらこくん、とうなずいた。
 凛太郎はかがんで、晴信の目線になった。
「でも、どうしてさっきの子供たちは君にあんなひどいことを言うの? 僕に教えてくれないかな?」
 ほぐれかけていた晴信の表情が、ふたたびこわばる。
 晴信はおどおどと辺りを見回してから、凛太郎を上目遣いに見た。
 明が晴信を励ます。
「お前さ、我慢ばっかりしてねえで凛太郎に少しは甘えちまえよ。凛太郎は、強情っぱりで融通のきかねえヤツだが、お前の悩みくらいは受け止めてくれるぜ。な、凛太郎?」
 明は凛太郎にウィンクした。
(僕のどこが強情っぱりで融通が利かないんだよ! 後で覚えてろよ、明!)
 凛太郎は怒りを笑顔で包み隠して、「そうだよ、晴信くん」と語りかけた。
「だって、僕は弓削先生――君のお兄さんにいつもお世話になってるんだから、先生の弟の君を通して、少しは先生に恩返ししたいんだ。だから、ね?」
 晴信は大きく息をついてから、語り始めた。
 晴信の話はこういうことだった。
 あの子供達は弓削信行の孫たちである。
 彼らには霊力がなく、巫子には選ばれなかった。
 弓削家、先代の巫子は凛太郎の母親である明子で、明子が弓削家を去ってから強い霊力を買われて、巫子に任命されたのが晴信である。
 同時に、陰陽師としての才能を発揮していた秀信が、晴信の後見人となり、弓削家の実質的な跡継ぎとなった。
 しかし、秀信、晴信兄弟は信行の正妻の子ではなかった。
 よって現在、秀信のことをよく思っていないものが親戚には大勢いるのである。
 親である彼らの気持ちを察知して、子供たちは晴信をああしていじめるのであった。
 学校にろくに行っていない晴信は、漢字がほとんど書けない。それをネタにして、今回はからかわれていたのである。
話を聞き終えて、凛太郎は秀信と祥が晴信が遊びに誘われた時、心配そうな表情をしていたのに合点がいった。
「だったらお前よォ、そんなけったくその悪い連中に誘われてもいっしょにあそばなきゃいいじゃねえか。俺だったら見るなりぶっとばしてやるぜ」
 明が拳を突き出した。
 晴信がその迫力に押されて、身を引いた。
「よしなよ、明」
「だって、凛太郎。男はこれくらい意気地がないと……」
「違うんだ。僕、晴信くんの気持ちがわかるんだよ」
 凛太郎の言葉に、明がおや? という表情をした。凛太郎は晴信の大きな目をつつみこむように見据えて言った。
「さっき僕、晴信くんに僕の母さんがホステスやってたってからかわれてた話しをしたよね?」
 晴信はこくん、とうなずいた。その頼りなげな様子は、思わず抱きしめてやりたくなるほど愛らしかった。
「だから小さい頃、僕は友達とほとんど遊んでもらえなかったんだ。いつもいじめられっことして一段低く見られてた。体が小さくて、女の子みたいだともしょっちゅう言われてたしね」
 凛太郎の告白を聞いて、晴信の大きな目がうるんだ。
(優しい子だな)
 凛太郎は思う。
(自分だって、悲しい思いをしたばかりなのに僕に同情するなんて)
 この少年の力になってあげたい。凛太郎は切に思った。 
「でもね、時々そんな僕のことも遊びに誘ってくれる子もいたんだ。そうしたら僕、とっても嬉しくなって、喜びいさんでその子たちについていった」
 晴信は一心に凛太郎の話に耳を傾けている。こんな純真な目をしていたころが自分に もあったのだろうか。
 凛太郎はふとなつかしい気持ちになった。するとそこには過去の傷があることにも気づく。
「けど、たいていその子たちは僕をからかって遊ぶんだ。ホステスの子だとか、僕が女の子みたいだとか言って。きっと僕が悲しそうな表情をするのが面白かったんだろうね」
「……ひどい」
 晴信はつぶらな瞳からはらはらと涙をこぼした。凛太郎はポケットからハンカチを取り出して、その涙をぬぐってやった。
「僕は泣きながら家に帰ったよ。でも、父さんたちの前で涙は見せられなかった。だって僕が母さんのせいでいじめられてるって知ったら、父さんが悲しむから」
「僕と、同じです」
 しゃくりあげながら晴信は言った。
「僕も、兄さんたちにこのことは言えない。だって兄さんにこれ以上心配かけるのがいやで……」
「あのヤローが素直に心配なんてするタマかよ」
「兄さんは繊細な人なんです!」
 何気なくもらされた明のつぶやきに、晴信は敏感に反応した。明はぎょっとした様子で身を引いた。いつもの引っ込み思案さとは打って変わって、晴信は身を乗り出して必死にいいつのる。
「兄さんは人前では決して弱音を吐かない人だけど、弟の僕にはわかります! 兄さんは人一倍優しくて、優しいから傷つくことも多い人なんです。一見平気そうな表情してても、兄さんが悲しんでたり、つらそうな表情をしてる時、僕は、僕は……」
 晴信はあふれだした涙を手でぬぐって、言葉を続けた。
「だから僕は兄さんの気苦労をこれ以上増やしたくないんですっ!」
 それだけ言って、ついにこらえきれなくなったのか、晴信は顔で手を覆って泣き出した。
「すまねえな。俺が言い過ぎたよ。悪かった」
 恐縮しながら明がわびた。凛太郎は明にうなずきかけてから、晴信の小さな震える肩を抱いて、自分に引き寄せた。
 晴信はびくっとして、驚いて涙に濡れた目で凛太郎を見上げた。が、凛太郎がなだめるようにうなずきかけると、そのまま素直に凛太郎の胸に顔をうずめてきた。
「よしよし、つらかったんだね」
 凛太郎は晴信の小さな栗色の頭を優しく撫でた。晴信の子供っぽいミルクの匂いが凛太郎の鼻先をくすぐった。
「晴信くんはこれからどうしたいの?」
 凛太郎はおだやかに問うた。晴信がしゅくしゅくと鼻をすする音がくぐもって、凛太郎の胸元から聞こえる。
「このまま我慢するか。なるべくあの親戚の子を避けるって手もあるよね。それとも……」
「俺があのガキをぶんなぐってやってもいいんだぜ?」
 腕まくりをしながら明が言った。凛太郎は苦笑した。
「まあ、直接仕返しするって手もあるよね、たしかに」
「僕、争い事は嫌い……」
 涙声で晴信は訴えた。
「あー、まったくいい子だね、晴信ちゃんは! 本当にあの陰険センコーの弟とは思えねえぜ、まったくよ」
「明、黙って」
 凛太郎の命令に明は口をとがらせながら従った。
「あのね、僕、考えたのだけれど」
 凛太郎は晴信の背中をさすりながら言った。
「あの子たちを見返してやるってのはどうかな?」
「み、見返すっていったい……」
「簡単だよ。アッと言わせてやればいいんだ」
「何だ? ケンカの仕方なら俺が教えてやっぞ」
 身を乗り出す明に、凛太郎は顔の筋肉だけで笑いながら言った。
「明は黙ってて」
「は、はい……」
 すごすごと引き下がる明を尻目に、凛太郎は晴信に優しく語りかける。
「あの子たちを見返してやればいいんだ。君ならきっとできるよ、晴信くん」

月明かりが、板張りの床を冴え冴えと照らしていた。
 ろうそくの光を頼りに、晴信はふとんをかぶったまま、それを熱心に眺めていた。
 急にガラリと引き戸が開いて、晴信は驚きの声を上げた。
「うわっ! に、兄さん……」
「驚かせて悪かったな、晴信。入るぞと言っても、返事がなかったものでな」
 晴信の寝所に足を踏み入れたのは、秀信だった。着流しから長い手足がつき出ている。 秀信がこちらに向かって歩いている様を見て、晴信はいつもながら自分の兄はなんと立派で堂々としているのだろうと思った。自分もこんな風なら、親戚の子供達にいじめられたりしないのに。
「あっ」
 小さくつぶやいて、晴信はおのれの頭を軽くげんこつで叩いた。凛太郎が言っていたではないか。自分を卑下するのは良くないと。
(僕、ちゃんと凛太郎さまの教えを守らなきゃ)
 晴信はふわっとした気持ちで、そう心に誓って、その冊子に目をやった。
 晴信は我に返って、ふとんの上に正座した。秀信がすぐそばに来て、晴信の手にしていた本をのぞきこんでいたからである。
「どうした、読書か? 暗いところで本を読むと目を悪くするぞ。もしそうなったら神々が気を悪くなさるに違いない。晴信がちゃんと自分たちを見てくれぬとな」
「ごめんなさい……」
「冗談だ」
 肩を落とす晴信の頭を、秀信はくしゃくしゃと撫でた。
「何の本を読んでいる? 見せてみろ」
「あ……」
 晴信が持っていた冊子を隠そうとするのを、秀信はスッと取り上げた。
「心配するな。漫画を読んでいても、皆には内緒にしておいてやるから」
 冊子を取り返そうとする晴信にいたずらっぽく微笑みかけて、秀信はその本を開いた。
「これは……」
 眼鏡に覆われた秀信の双眸が、驚いたように見開かれた。
「お前がすすんで勉強するとはな」
 てへっと晴信は照れ笑いした。
「凛太郎さまのお教えなんだよ、兄さん」
「凛太郎の?」
 晴信は誇らしげにこくん、とうなずいた。
「僕がいっしょうけんめい勉強して、漢字が書けるようになればあの子たちにもいじめられないようになるって。それにできないことができるようになると、自信ができて、他人にひどいことを言われても、傷つきにくくなるんだって」
「……お前、やはりあの子供たちにいじめられていたのか」
 秀信に問われて、晴信はあわてた。秀信の鋭い目は、暗く沈んでいた。他の人間にはいつもの秀信に見えるだろうが、晴信にはわかるのだ。兄が、弟である自分のためにひどく憤って、そして悲しんでいることを。
「平気だよ、兄さん」
 晴信は笑ってみせた。精一杯、明るく。
 いつもはそうして笑っていると、心のどこかが寒くなっているのだが、今夜は違う。凛太郎が晴信にああ約束してくれたのだから。
「だって、僕には兄さんも、祥も、それに凛太郎さまもついていてくださるんだもの。凛太郎さまは今日、僕に申し出てくださったんだ。僕に勉強を教えて下さるって。もし字がたくさん書けるようになったら、僕、兄さんに手紙を書くね!」
「ひとつ屋根の下に住んでいるのに手紙は必要ないだろう」
「兄さん、ひどいっ」
 むくれる晴信を、秀信は優しく抱きしめた。
「苦しいよ、兄さん」
 晴信は笑いながら言った。口ではそう言っていても、兄の大きな胸に抱かれるのは心地良かった。
「ーーーー晴信。この秀信、何がどうあろうともお前を守るからな」
「ありがとう、兄さん」
 晴信は兄の優しい背中にしがみついた。
(そんなことわざわざ口に出さなくても、僕知ってるよ。兄さんが僕を守るために、どれだけつらい思いをしてるか)
 だから。晴信は心に誓う。
(僕も、兄さんのためにがんばるよ。巫子として、イザナミ様がこの世にふたたびおいでになれるように!)


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